はんたいことば

小学校のときに反対言葉とか言って、対義語を言い合うってゆー遊びをよくやった

ちなみに認知症のリハとかでも使えまっせ。

 

平和の反対

 

辞書によると、戦争ってことになってるのが多いらしい。

変なのw平和の反対が戦争であれば、すでに日本は平和でございます。

平和ですかい??平和なのですかい??

僕は平和だとはこれっぽっちも思っておりませぬ。直接的に戦争をしてないだけ。殺される可能性は戦争じゃなくても充分にありますし。数の問題が平和の基準になるのだったら、マイノリティは死んでも平和には関係ないですってことになりますからね。それが平和なら、個別性など無くしてみんな同じお面被って生きてかなきゃならない。

まぁ、今はそんな感じになってるとも言えますがね。だから、平和であるって言えるのかもしれませんね。

とすると、この平和のために個別性は消したほうがいいのかもしれませぬな。

しかし、それだと、息苦しく、生き苦しく、平和とは程遠くにある人達が量産されてることでしょう。なので鬱積したそれは、思わぬところで爆発してしまうのでしょうね。それがまた、誰かの平和を奪うのでしょう。しかしながら、それでも絶対数の維持はできるし、その意味で平和は維持をされてく。

維持するために数的には少ないものを犠牲にいたしまする。

それが平和でしょうかね。

 

平和

 

そもそも平和の反対が戦争というのがよくわからない。戦争がなければ平和というのが解せない。そのくくりにしてしまうと、平和という意味がなんだか小さく、無意味なものになってく気がする。

ノルウェーのヨハン・ガルトゥングという学者が平和について言ってる。

平和の対義語は、暴力であるって。

ここでの暴力が意味するものは、誰かに対して、何らかの力が使われたとき、その誰かがやれたことであろう、実現できたことであろうことが、実現できなかったという時。その何らかの力。それを暴力と呼ぶ。

さて、この暴力にはさらに2種類がある。

一つは、その暴力を行使したモノがはっきりしている場合。これをパーソナルバイオレンス。

もう一つは、

その暴力を行使したモノが特定できず、社会構造によって引き起こされるモノ。これをストラクチュアルバイオレンス。

 

そしてこれらの暴力がない状態を、平和とした。

正直、こっちの方がしっくり来るのだ。平和というのは、暴力が使われずに存在できることであると。

 

アヒンサー

 

結局、個人的に思うのは、非暴力こそ平和であるとおもうのでありんす。

さて、上記2種類の暴力に対し、2種類の平和もある。

パーソナルバイオレスがない状態をネガティブピース

ストラクチュアルバイオレンスがない状態をポジティブピース

この2つの状態をあわせ、平和というわけです。

だとしたら、この日本は、平和とは程遠い。

確かに、戦争という暴力を行使してくるモノがハッキリしてるような事態ではないので、その意味では平和、ネガティブピースであるとは言えますが、

構造上から発生してる暴力は蔓延しまくってるわけで。ポジティブピースとは程遠い。

他の国でもそうでしょう。戦争とはいかなくとも、食糧危機や貧困。

それこそ平和とは程遠い。

戦争がないだけで、平和であるとは言えぬのだ。

そしてこの2つの暴力は混在し相関するし、くるくるくるくるくるして悪循環を繰り返すわけで。

だから、どちらをどうこうするとかではなく、どちらもどうにかしなきゃならぬ。

暴力を無くすこと。暴力を生まないこと。

非暴力こそ。平和だと思うのでありんす。

 

歯車から抜けるため

 

さてさて。安保法案がどうこうなってるわけですが、賛成反対にしろ、あまりにも暴力的だなと感じるのが正直な所。どちらも、どちらもが、平和とは離れたことをしてるように見える。

しかし、どちらもが平和を求めてるわけで。

と、いうか。

そもそもの前提として、すでに暴力的な社会を許容してるところから始まってるわけで。

それに対することをしていないばかりが、もっと煽ってるように感じられる。

国賊だ非国民だ、ファシストだ、バカだ、アホだ、死ねよ、そんなことの応酬でしかない。

それぞれにそれぞれの正しさがあり、どっちが完全に正しいだなんて言えないけれど、もっと個人的なレベルのことだと思うのですな。

安保うんぬんはパーソナルバイオレスに対するネガティブピースな問題であり、その背景にはもっととんでもなく大きく強力なストラクチュアルバイオレンスが控え、元凶となってるわけで。

そこに対してアプローチをしないかぎり、つまり、ポジティブピースに進まない限りは、まったくモグラ叩きにしかならぬ。

デモをすることは素晴らしい、法案を通そうとすることも素晴らしい。

けれど、内実、行動を見てみたら、構造的な暴力には一切手を付けないばかりか加担してる。

 

それじゃあ、変わらないんだと思うのです。

 

触手のように、その構造的暴力から戦争というパーソナルバイオレスが生まれてくるだろうから。

 

だから。

 

目に見えぬそのあやふやなストラクチュアルな暴力をしっかりと捉え、ポジティブピースな方向へ歩まなければならぬ。

それが平和への道じゃないのかなー。。。。。

 

ちなみに、ポジティブピース。日本語にすると積極的平和。

総理大臣がよく使ってる積極的平和とは言葉は同じだか、概念が違いまする。

総理大臣が言った言葉はProactive Contributor to Peace。

平和になるための事前対策って意味だと思う。

平和自体に対する意味ではない。平和に対していいというものを先制するという意味でござんす。

つまり、先制攻撃も必要とあらば行えるってこと。

結局、平和とは程遠いんですがね(笑)

あ。でも批判するわけではないのですよ。ハッキリ言って現状やむを得ないと思う。

こんだけ暴力的な世界の中で、できることは少なくとも手をつけれそうなところからやるしかないわけで。

結局それが悪循環を引き起こすことになるだろうけど。

もう、止まらない歯車のようなもの。

それに反対してるものでさえ、加担してるのと同じな人が多いのだから。

もしも、本当に止める気があるのなら、それこそストラクチュアルなバイオレンスに目を向けねばならぬ。

それを食い止めれば。

安保法案などただの文字に成り下がるだけなのだから。

 

 

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